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豊かさの向こうに

  陽春三月、夫と久々の旅行に出かけました。

  初めての福建省泉州の旅でした。この旅で初対面でしたが、忘れられない夫妻と出会いました。元デザイナー・美術家の曽路さんと、妻で企業経営者の蔡万燕さんです(以下敬称略)。二人は、自宅のすぐ隣にある個人美術館「曽錦徳芸術館」のオーナーと運営者でもあります。

  曽錦徳(1944-2006)は曽路の父親。福建省恵安生まれ。コロンス島にある「鷺潮美術学校」(のちの「アモイ工芸美術学校」)を卒業後、白磁で有名な徳化の国営磁器工場の絵付師に。名前こそ知られていないが、鄧小平氏とサッチャー氏が人民大会堂で会談した時の写真に、曽錦徳が絵付けした湯呑も写っていました。絵付けだけでなく、錦徳はおびただしい数の山水画、水彩画、人物画、油絵、彫刻作品を残し、スタイルも文人画からソ連や西欧の現代美術の影響を受けたものまで、豊富多彩です。

  錦徳は少年時代に生家が没落し、結婚後は幼子を失い、それが発端となって妻が精神障害を患い、晩年、20歳にもなった息子は交通事故で亡くなり……不遇と苦難に満ちた人生でした。しかし、そんな中でも、彼は師匠の教えを守り続け、伝統文化が人間の心を豊かにできることを信じ、「修身斉家治国平天下」という古代文人の理想を胸に創作に取り組み続けていました。

  しかし、閉ざされた時代背景の上、磁器工場が辺鄙な山中にあったことから、曽錦徳の多彩な才能は生前、極限られた範囲でしか知られず、作品の価値を世間に知られることもありませんでした。

「一度でいいから、個展を開きたい」

 錦徳は夢叶うことなく、62歳で他界しました。

  さて、息子の曽路は父と同じ美術学校を卒業し、広告デザイナーとして活躍した後、地元で広告会社を創業しました。経営を安定させ軌道に乗せた後、彼は会社経営を妻に任せ、自身は父の夢を叶えることに専念する決意をしました。

  妻と一心同体で取り組んだ結果、曽錦徳初の個展を2015年に福建省画院で開催することができました。来場した中国美術家協会の范迪安副主席は、「孤独な精神の世界、独立した魂。数多くの枠を突破した斬新な試みが見られた」「曽錦徳は彼が過ごした歴史的時間においては、非常に得難い価値を残した芸術家だった」と評価しました。曽錦徳が中国美術界と関わりを持った瞬間でした。

 曽路が約20年の時間をかけ、曽錦徳伝記をまとめ、曽錦徳芸術館を作りました。いずれも、父が生前実現できなかった願いであり、曽路と妻の、父の芸術家としての人生を全うさせるための努力の賜物でした。

   二人の案内で、完成して2年になる「曽錦徳芸術館」を見学しました。ここには巨石あり、紙面から気迫が迫ってくる雲、岩、水あり、諧謔的な自画像あり、山林の中を行進し、助からないかも知れない病中の子を病院へ搬送する人の行列あり、交通事故で急死した息子への張り裂けそうな思いあり……人生の喜怒哀楽などが一枚、一枚の作品と化して、永遠の命が吹き込まれて、見る人の心に刺さります。

  館長の曽路が言います。

「父は裕福な家に生まれたものの、生涯、貧乏でした。狭い家の狭い机の上で、毎日のようにせっせと創作し、人づきあいが好きで、友と安酒を飲んでは、私に墨を磨らせて作画に取り組んでいました。私の、大学卒業後の身過ぎ世過ぎのために働く姿が父の目には何とも哀れに映っていたようです。お金がないとできないことが多いですが、心の豊かさより金の亡者になる社会風潮に父は違和感を覚えていたのです」

そして、「父の絵は、しばらくは家族の手元で管理しますが、いつかは社会の富になってほしい」、と。

 物質的な豊かさを手に入れた曽路と蔡万燕夫妻は、心の豊かさを求める旅路を続けています。

こんな二人との出会いは、私にとって、泉州で目にした一番美しい風景でした。


     王小燕(日文翻译)

     2023年5月11日


曾 锦 德 艺 术 馆